第三話 雨の街
歪んだ景色。真っ青な空を見上げても、雲は平に溶けて広がっている。街並もまるでぐしゃぐしゃになった風景画。窓のさんも湿って変色していた。今日も雨、さっぱり止みそうにない。
洗濯物は当然部屋干しで、なかなかぱりっと乾いてくれない。服が臭わないようにミントの抽出液を入れて洗濯するんだけれど、その爽やかな匂いもこんな天気じゃ爽快でも何でもない。空気と同じだ。
「しかし止まない雨だねえ」
「季節が違うっつーの」
街に走る水路。よく見てみると水が溢れている。
「これは水没ありえるな」
「さすがに今までそんな事なかったでしょう」
「市もなさそうだし、あーあ」
窓の外を見るといつもはテントが立ち並ぶ辺りも、今日は閑散としていた。大雨で楽しみがなくなるなんて、不運だ。
何もできない毎日。夕食を終え部屋に戻ろうと椅子から立つと、お父さんが気が滅入るような暗い声で話し始めた。
「満潮と大雨の影響で……水質処理が間に合わなくて明日から少し断水だそうだ」
「断水?」
「雨水が混ざって溢れ、正常に濾過機能が動かないらしい」
「水なら大丈夫だよ、どれだけでも作れるから」
「まあ、うちは心配ないね」
「じゃ、部屋に戻る。何かあったら呼んで」
「はいよ」
ルイアスの王都は複雑な海岸の形をしている島で、島の真ん中が一番高く、そこにお城と水道処理場がある。高い土地に海水をを汲み上げ、土地の高低差を生かして土地に塩分を吸収させ濾過し、淡水化する仕組みになっている。とはいえ濾過機能を有した土地は本島の直径の半分もない。そのためお城の周りは塩分を含んだ地層が多く、たまに結晶が見られる。植物も潮風や塩分に強いものしか植えられていない。
ここ最近の降り続く雨のせいで貯水量が増え水を汲み上げなくても満水になり、処理しきれなくなって機能停止。濾過される事なく垂れ流しになるんだろう。これは生活への影響が大きい。
術で生活用水を生み出す場合、これだけ雨が降っていれば水の元素も多くなるだろうし大丈夫だろう。万が一の場合術者で協力しあえば水不足は解決する。
夜中になった。本を閉じた。
耳障りなあの音が聞こえない。急いで窓の外を見ると歪んでいた景色がくっきりと見えた。満月の光で蒼く染まった街並。雨が止んでいる。どれくらいぶりのことだろう。思わず窓を開けて身を乗り出した。
翌朝、いつもより早く起きた私は、まず一番に外に出て空の様子を伺った。
見上げれば雲一つない晴れ。いつもどおりだ。
ここ最近の天気のもっともおかしな所は、空が蒼いまま雨が降り続けている事だ。鋪装タイルの隙間から伸びている小さな花がいきいきと花開いていた。
ぴちょり。
おでこに冷たい感触。見上げると雲が見えないくらいの水の粒が降り注いで来た。雨だ。また、降り出した。周囲をぐるりと見渡すと、広がる虹。きれいだけど、奇妙。
突然の雨に街はざわめき始めた。何故か胸騒ぎがする。何故だろうか、この雨、体が熱くなる。普通の水じゃない。肌に当たって弾けた瞬間、小さくも乱雑な連なりをしているのか、不気味な気流の粒子が散らばる。
もしかしてこれは、霊素組成儀術。
試しにものを凍らせる術を発動させてみた。やはり水滴は予想通りあっさりと氷の粒になって空中を舞った。霊力が通りやすい性質らしい。
推論だけれど、この雨は霊素組成儀術によるもの。儀術で故意に降らせている雨。しかしどこで誰がこんな雨を降らせているのか。とてつもない広範囲だから、一筋縄じゃ行かない霊力が必要になるはず。
静かに神経を集中させて空気の流れを掴んだ。
何だろう、このまるでビー玉の中に混ざり込んだ石ころのような気流。得体の知れない乱雑で暴力的とも言える連なりが空中を浮遊している。普通、純元素は特定の結合以外で自然界には存在しない。そのはずなのに、その秩序の崩れを感じる。そしてこの気流、気持ちが悪い。細い針のようなものが、ぬるりと意識の中に入り込んで神経の中をちくちくとさしながら流れているようだ。体内の霊力が拒否反応を示す。
だんだん気分が悪くなって来たので、意識を集中するのを止めた。
降り注ぐ雨。これを止めるには水の自然元素を分解するしかないのだろうか。けれど、そんな事は法で禁じられているから不可能。自分が持つ中級儀術者の資格では、未確立の術の使用は禁止だ。分解する方法は知っていても実際使えない事情がある。
そしてここの雨の恐ろしい所は、おそらく水路の水を基に発生しているって事だ。水を基に気流を結び付け、雨を降らせている。予測でしかないが、こんなところだろう。
残念ながら、現状、既存の術で止める術はなさそうだ。発生源を突き止めるしかない。自分が上級儀術者なら何とかできたかもしれないのに。未確立の儀術の実験や使用を許可されたのが、上級儀術者だけなのだ。いわゆる王立研究所所属の研究員や、学術施設群の教師達しか取れない資格。
戸を開けて迎えてくれたのは、またミントの香りだった。
結局この日は、結果の出そうもない思考を延々と結んでは引きちぎるを繰り返す一日を家で過ごした。
あれから三日、出歩くのも不可能なくらいの豪雨に、ついに王都の外周にあたる低地の一部が水没した。真ん中辺りに位置する私の家でも、あと一日降り続いたら危ない。水路は氾濫し、道は膝下くらいまで浸水している。極力外出を控え、出歩く時は気をつけるようにと警報が出ていた。
いいかげん食料も尽きてきたし、今日は夕方になって雨が弱くなったので商店街に向かう事にした。加工食品の類いならあるかも知れない。
「とりあえず買えそうな分だけ買ってくる」
「できるだけ歩かないようにね」
「んじゃ行って来ます」
「早く帰ってくるんだよ」
袋を片手に玄関を出て素早く空中浮遊術を自分にかけた。私以外の家族は儀術者の資格を持っていないため儀術についての知識はなく、空を行き来できる術を会得しているのが当然自分だけだったため、代表で買い出しに出る事になった。誰が行くより安全だ。私には雨なんて怖くない。纏った風の力が水滴を全部吹き飛ばしていた。
雨の音しか聞こえない。じっとその音を聞いていると、視界が色褪せていくようだった。
行き付けの生活用品と食料品を売っているお店の通りに入ると、人集りができていた。 何人かの住民が口論している様子が分かる。とりあえず様子を伺おうと民家の屋根の上に降り立って聞き耳を立てた。
食料はないのか、これは私のと、物を取り合っているんだってすぐに分かった。確かにこの雨じゃお店だって品薄だろう。きっと求めるものは得られない、諦めて様子を伺う事にした。
あ、気付いた頃には遅かった。取り合ってた一人がもう一人を殴った、また殴った、喧嘩が始まった。女の人が泣きわめいている。痛々しい。傍観者でいられて助かったと思ったけれど、喧嘩を止めに入ったお店のおじちゃん、そしておばちゃん、家族まで巻き込んで酷い事に。さすがにヤバいと思った私は屋根から下り、止めに入った。けんかするほどだなんて。滅多にけんかなど見ないから、少し驚いた。
「よして下さい!」
両手を広げて激しく拳を振るっているおじさんの前に立つ。
「何だ?」
「暴力は無意味です、今は、何の解決にもなりませんから!」
ぐっと服の胸元を掴まれる。薄手の生地の上着がべろりとめくれ、胸が露になる。止めてよね。
「ちっ、子娘か……とっと帰れ!」
「私だって買い物に来たんだ」
「お客さん方、うちにも品物がなくて……」
そんな事、分かっている。たったいくつかの魚の缶詰めを取り合って殴り合うなんて、悲しい。店の奥を覗いたら、幼い女の子が泣きわめく赤ん坊を必死にあやしていた。きっと娘なんだろう、辛いだろうな。
「ごめんなさい、他をあたってみます。雨、早く止むといいですね」
胸ぐらを掴む腕を払い、その場から去る事にした。踵を返すと背後の喧噪は静まったが、どうやらみんな諦めたようだ。
こうなったら王宮に近い高級一等地にいってみよう。こちらになるとまだまだ水が上がって来ていなかったので陸地を歩いていく事ができた。
この一帯にはお店がたくさんある。希望は失われていない。それに術のおかげで体が濡れる事はないし、快適。
高級商店街の通りに入って、思わず足を止めた。雨音に混ざって聞こえる怒声に罵声。赤いのが濡れた路地に広がっているけど、あれは。点々と横たわる人々と、お店の前でさっきみたいにもめあっている人集り。こっちの方が規模が大きい。高そうな身なりのおじさん達がなりふり構わず取っ組み合いをしていた。信じられない。
ここもだめか。さすがに自分じゃ手に終えないと思って、諦めて上空へと上がった。せめて様子でも見て帰ろう。明日にはきっと大騒ぎだ。
ルイアス、どうしてこうなったんだろう。平和で穏やかな街だったのに、こんなに殺伐としてけんかまで起こるなんて。
せっかくお城の近くに来たついでなので、水道処理場を見に行く事にした。
断水中だけどどうなってるんだろうか。そろそろ各家庭の貯水状況もヤバいんじゃないだろうか。
上空から建物付近に近付き、その辺の通路に降りた。雨をはじく目的だけで術はかけたまま。
雨の音に紛れて足音がする。結構な人数の足跡が、こっちに向かって来ている。あの奥からだ。
気になって曲り角を凝視していると、薄い刃の妙な剣を持っている女の子が出て来た。それを追って真っ黒い服の男達が、二、六、十人。とっさに壁側に寄り奴らをやり過ごすと、その背後を目で追った。間もなく狭い通路の中で全員の足が止まり、激しい殴り合いが始まった。
何だろう、剣を持った女の子。すれ違った時に見た顔は人込みに紛れても目立つようなきれいな顔をした子だった。何より金髪が目立つ。あんな子が何で妖し気な黒装束に追われてるんだろう?
そんな心配をしていると、ついに女の子が真っ黒に捕まえられてしまった。
助けるべきだろうか、もしかしたら酷い事されるんじゃないだろうかと焦りが沸き出した。それにあの真っ黒い姿、先日見た夜中の火事の時の奴を思い起こさせる。だけど助けるにしても私には何も戦う術がない。それにあの時は恐怖におののき、殺されかけていた。無力な一般市民だった。
よく見ると女の子が落とした剣が道ばたに落っこちていた。なるほど、剣を落としたから捕らえられたんだ。よし、剣なんて使った事ないけれどここは!
剣を拾い上げ戦おうと思ったが、よく考えたら何を自分は、と冷静になった。何の取り柄もない儀術者であるだけの自分が、何ができる? それに剣なんて握ったことがない。怖い、でも。
このままではと思い剣を拾い上げ、綺麗な装飾のされた柄を握りながらため息を吐いた。きれいな剣だ。雨に濡れて錆びないか心配。
黒装束共が女の子に夢中になっている。どうしよう、このままでは女の子は殺されてしまうかもしれない。まるで火事の晩の自分のようだ。マーレに助けられた自分はこうして生き延びている。
あの女の子は、どうなる?
マーレ……名前とあのほんわかとした表情が胸に思い浮かんだ。
「うわっと!?」
突然その剣が光りだした。驚いたけど今はそんな事構ってる暇はない、とっさに目映い剣を降り下ろし、女の子を羽交い締めにしている黒装束を、がむしゃらに追い払った。剣の柄が熱い。倒した黒装束が起き上がってこちらに向かってくる。やはり使い慣れないもので見よう見まねで戦っても、相手を打ち負かすなんて無理だった。悪ガキ達との取っ組み合いを思い出しながら、剣を握っているのにあいた片方の拳で殴り、蹴り飛ばした。もうめちゃくちゃだ。なりふり構っていられない。
右側にいたやつを思いっきり突き飛ばし左側から迫ってくる奴を回転の勢いを付けて思いっきり吹き飛ばした。ばすっと布が裂ける音がする。黒装束はべちゃべちゃと音を立ててずっこけた。その後も数度の攻撃を繰り返し、数分。黒装束達は全員伸びきって起き上がらなくなった。きっと死ぬような怪我は負ってないはず。しょせんは子供同士のけんかの延長の攻撃でしかないのだから。
剣は相変わらずぼんやりと光っている。何だろう、これ。
「ふう、危なかった」
あの時ほどの緊張感はない。というよりあんな恐ろしい死に目にあったから、どこか落ち着いて現状を見ている。女の子のもとによりながら一汗拭うと、剣を左手に持ち替えて女の子に手を差し出した。ずぶ濡れの金髪。真っ青な瞳がじっと見上げている。にしても、こんなところで剣なんて持って追われてるなんて危なっかしいったらありゃしない。特に帯刀は禁止されていないけど、あまりに不似合いだ。子供同士のけんかは日常だが、こんな大人数に女の子が追われるなんて、なかなかない。つくづくルイアスも物騒になったな、と思わせられる。嘆かわしい。
「これ返すね、ごめん、勝手に使って」
私を支えにゆっくりと立ち上がった女の子は、相変わらずぼーっとこちらを見つめているだけ。あーあ、顔は泥水で汚れて服もぐちゃぐちゃだ。みっともなすぎて泣けてきた。
「あの……何か顔に付いてる?」
「いえ、ちょっとびっくりして、その」
「よく分かんないけど最近物騒だから気を付けて。ハンカチこれ、あげるからその顔拭くんだよ。じゃあね」
気付いたらずいぶんと薄暗くなっていた。早く帰らないとみんな心配してるかも。女の子に手を降ると素早く地を発ち、そのまま立ち並ぶお屋敷の上空を家まで一目散で飛んで帰った。
家の周りはやっぱり浸水が酷い。明日の夜にはヤバいかも。
「ただいま。ごめん、どこも無理だった」
「仕方ないね。まだあるにはあるし、何とか食い繋いでいこう」
「あんた何して来たの、服に泥水がいっぱい付いてるわよ。しかも何? これ」
「うわとと」
突然マヤ姉にびろんと伸びっぱなしだった服の胸元を引っ張られた。
「またどっかで何かしたんでしょ。この暴れん坊!」
「あいた! お店で喧嘩止めようとしたら、おっさんに掴まれてやられたんだよ、自分からはやってないから!」
テーブルに座り、タオルで顔を拭く。
「まさか、ぶっ飛ばしてないでしょうね?」
「そりゃあ」
「……相変わらず喧嘩してくる割には無傷なのね。さっすがご近所でも大評判のガキ大将・メリルちゃんだわ」
この服、ずいぶん昔から着てるけど、胸元がびろんびろんになってしまったからもう着れないな。
「わりとお気に入りだったのに」
「あんまり外で暴れて顔や体傷つけないようにな」
「あはは、この子なら心配ないよ」
食卓からお肉やお魚が消えた。保存の利くお米やお芋などの根菜類を始め、野菜ばっかり。食べるものがあるだけいいよね。
夜。点々と灯る灯り、欠けた月。外は相変わらず雨音で塗りつぶされ、滲んで闇夜に溶けていた。