第二話 少女


 暑い。
 目が覚めて思いっきり布団をめくり、身を丸めて反動で起き上がった。
 何でこんなに暑いんだろうと汗で湿ったぼさぼさの頭を指でもみほぐしながら、ふと足に押し付けられた柔らかくて暖かい感触に気付いて視線を落とした。
 二人じゃ狭いベッドで、すやすやと眠るお下げの女の子。あどけない顔、私よりちょっと年下だろうか。長いまつげとりんごほっぺがなんともかわいらしい。じっと見ているとほお擦りしたくなった。ほっぺたくらいは突ついてもいいかもしれない。ちょっと視線をずらすと、その顔には似合わない真ん丸の柔らかそうな胸。すごく大きい。触りたい、とても揉みたい。
 昨晩の事を思い出し、部屋の入り口を見た。扉の横に立て掛けられた剣。あの時は気にしなかったけれど、抜いたら血が固まってぼろぼろになっているかもしれない。起きる前に洗っておいた方がいいだろうか。だけどそんなもの洗っているのを家族に見つかったら何て言われるだろう。あんまり重たいものじゃなかったけど、装飾がきれいだ。まるで宝物。
 女の子・マーレはまだ起きそうにない。触れた肌がしっとりしていたので、布団はかぶせなかった。この季節はまだほんのりと暑い。首筋をそっとなぞったら指が濡れた。

 先に着替え、居間へと降りた。
 今日の朝ご飯は、いつも通りお粥とサラダとお魚だ。美味しそう。お腹空いたなあ。
「おはよう」
「ちょっと! オイリーキッチン燃えちゃったって!」
「え!?」
「今朝その辺の奥さん達に聞いたの、あの辺りのお店全部無理とか何とか」
 あの時は考えつかなかったものの、そう言う可能性もあったんだった。
「せっかく働き始めたのに、もったいないねえ」
 食卓に準備された、五人分の食事。細かくちぎられたレタスの上で、雫が瑞々しく光ってた。
「キッチンの常連の子が気に入ってくれるか分からないけれど」
「まだ寝てるよ」
「うちに来たときも眠ってたのにまだ眠ってるの? どれだけ飲んだのよ、具合は大丈夫なのかしら」
 お酒を飲んでいるというのは嘘なので、適当に肩をすくめて話を流した。

 マーレの様子を見に部屋に戻ってきて耳に飛び込んできた音に、思わず噴き出した。間の抜けたぐ〜きゅるきゅるいう変な音。お腹がなっている。それでもまだ目覚めようとしなかったので、そっとその身を揺さぶった。私なら空腹で目が覚める。
「朝だよ。ご飯できてるよ?」
 つかんだ腕は柔らかい。この腕があの剣をもって戦ってるんだから奇妙な感じがしてならない。そしてこのフリルの間から覗いてる大きな胸。何食べたらこんなに大きくなるんだろう? 気になってそっと触ってみた。わあ、柔らかい。
 お、反応した。手を止めて寝顔を覗くとうっすらと目が開いた。
「おはよ、すんごい寝てたよ」
 むっくりと起き上がり、目を擦るマーレ。ベッドの上でポカーンとしたまま、動こうとしない。
 もしかしてこの現状が把握できてないのかもしれない。だって、火事の後倒れるように突然眠ったんだから。
「おーい」
 あれからの記憶ないんだもんな。あそこで出会わなかったら今頃この子どうなってたんだろう。その前に自分が死んでいたな。
「昨日の事のさ」
「はい」
「何か覚えてない? 寝起きにごめん」
 今までに見た事もない光景。あれが何なのか確証はないけれど、たくさん転がっていた真っ黒の物体。空間を満たす異臭。そして聞いた事もない霊素言語で炎の儀術を発生させたおかしな奴に、何より熱すぎて水で消えない得体の知れない大火事。
 思い出すだけで恐ろしいけれど、何故かマーレの顔を見ていると恐怖なんて全く感じないくらい和んでしまう。
「ご飯いこ、お腹空いた」
 手を差し伸べるとマーレは握ってベッドから降り、よたよたと覚束ない足取りで私に手を引かれたまま階段を降りた。怖いな、いつかずっこけそうだ。二人で階段から転げ落ちるなんて勘弁して欲しい。それにこの子は、その、重い。
「おまたせ」
「あらおはよう。えらく可愛いよねえ、ご両親心配してるんじゃないの、大丈夫? どう見てもあんたより年下でしょ」
 お母さんはマーレの姿を見るなり、そう言った。 自分は知り合いとは言ったものの、この子のことを名前以外何も知らない。家族のことなんて考える余裕すらなかった。それどころじゃなかったわけだし。
 それまでまだ目が覚めてないみたいに突っ立っていたマーレが、食卓の上に並べられたご飯に気付いて、ブルブルと震え始めた。
「どうしたの?」
「ごはん……」
「はいどうぞ、ここ」
  椅子を引いて座らせる。マーレはぺしょんと座り込むと料理を見つめたまま震えていた。
「どうしたの、嫌いなものでもあった?」
「い、いえ、好き嫌いはないです」
 スプーンとフォークをマーレに渡し、元気よくいただきますと挨拶して、オレンジジュースを一気飲みした。マーレの動きが気になってお粥をゆっくりかき混ぜていると、彼女は木の器を傾けて物凄い勢いでお粥を啜り飲み干した。ちょっと待った、それは飲み物じゃない。
「はや」
 お椀を持ったまま、ふうと一息吐くマーレ。見てるこっちが幸せになるような満面の笑み。
「お粥一気飲み、初めて見た」
「あ、つ、つい、その……」
 気付いたら体の震えが止まっていた。
「ほらほらどんどんお食べ」
 いい食べっぷり(飲みっぷり)が嬉しかったのか、お母さんはどんどんお皿にサラダを盛り付ける。そんなに食べれないよ、多すぎ。

 結局マーレはなんとお粥を三杯も飲んだ。一気飲みではなかったけれど、飲んだ、と言わせてもらおう。
「火事どうなった?」
「明け方になるにつれて止んだみたい。何だったのかしらね? お父さん起きてて損だったわ」
「ふーん」
 そんな返事しか出来なかった。
 野次馬に行ったことは伝えているけれど、それ以上何があったかなんて言えない。心配させるだろうし、この平和なルイアスではありえないことだから。話題になるまで黙っておこう。
 脳裏にふと深夜のおぞましい光景が蘇り、鼓動が早まるのが分かった。胸がむずむずする。さわやかな朝だったのに悲しくなった。

 朝食を終え身なりを整えて、玄関に向かう。
「マーレ、どうする? 私これから仕事、様子見に行くんだ」
「ついて行きます」
「え、仕事場に? 昨日のあの場所よりは近いからいいけど」
「はい」
「多分片付けになるかな……ま、いっか」
 自分の職場の建物が軽石みたいになっている姿を想像し、ため息をついた。さすがにあれは使い物にならないだろう。
 外で洗濯物を干していたお母さんに行ってきますと声をかけ、家を出た。

 爽やかな日射しの下、道を多くの人が行き交っている。ふと空を見上げると、遠くには煤けた家々。酷い有り様だな。せっかくのいい天気が台無しだ。
「火事の事……何か知ってる?」
「特には」
「じゃあ、何で戦ってたの?」
「敵意を向けられたから、自己防衛です」
「そ、そっか。ね、差し支えなければ名前以外も知りたい」
「えっと……例えばどんなことでしょう?」
「年齢とか、どこに住んでるとか、そういう事でいいよ」
「はい。年は……住所はよく分かりません」
 まさかこの子、自分の年齢も住所も知らないということはないよね? 何だか不安になってきた。昨日はあんなにりりしく戦っていたのに、いざ話してみると本当に子供のようだ。体格以外は。特に胸。
 マーレがもじもじしていると、オイリーキッチンについた。あんなにきれいだった白い石の壁が黒く煤けて、木製のテーブルがあったテラスもぼろぼろになっていて足を踏み入れられない。とても自分が働いてたお店には見えない。奥を覗いてみると食材庫は丸焼け、穀物袋が炭になっているのが見えた。中に入ったら焼き魚がありそうだ。いじきたない野良犬がうろついている。
「ここが?」
「そう。ここで働いてる。食堂ね」
「あらおはよう」
「あ、おはようございます」
 マスターの奥さんだ。いつもは元気な顔で従業員やお客さんに笑顔を振りまいているのに、その顔は当然浮かない。
「びっくりしたわ、焼けてるなんて。家と別でよかったわぁ」
 昨日見た光景を思い出し、建物が焼けただけじゃ何とも思えない自分がいる。真っ黒で誰かも特定できないまで焼け焦がれた、多くの人々。きっとあの辺りの住民だと思うけれど、何であんな所で倒れていたんだろうと思う。今頃あの一角は大騒ぎかも知れない。それに比べたら家が焼ける事なんて、ね。おばさんたちが無事みたいでほっとした。
「この子は?」
「えっと、友達です。仕事に行くって言ったら、一緒に来るって」
「あの、お手伝いできる事があれば、やります」
「あらあら、あんたみたいなか弱そうなお嬢ちゃんには手伝わせられないよ! けれどここまでやられちゃあ、当分営業できないねえ、困ったものだわ」
 出勤予定だった従業員が全員揃い、マスターとおばさんの指示で店の片付け作業が始まった。手伝うと言っていたマーレも、みんなに溶け込んで片付けを行っていた。見た目こそ違和感があるものの、しっかり作業はこなしている。正当防衛とはいえあんな奴らをしとめるんだから、体力はあるんだろう。

 休み休み片付けていると、夕方になった。今までだったらオレンジ色に染まる白い街並みがここにはあった。それが今はめちゃくちゃにされていて、現実味がない。
「そんなわけで、この店の状況じゃ当分営業できないし、みんなには再開できる時に連絡するよ。申し訳ないねえ」
 マスター達が謝る事じゃないという声が、どこそこから上がる。みんな辛い。何かがこみ上げてきた。
「経営者たるもの、みんなのお給料の保証もしないといけないし、事件とは言え申し訳ないわ」
 きっとこのままじゃおばさん達の生活も厳しくなるだろう。私なんて自分の小遣いを稼いでるようなものだから生活への影響はないけれど、他のみんなは毎日がかかっている。重大な事だ。

 みんなでお疲れ様の挨拶をし、家路へとついた。マーレはてくてくと横についてくる。何だかんだで最後までしっかりと手伝ってくれた。すごくいい働きぶりで、みんなにも溶け込んでいた。
 街を見て回ろうかと思ったけれど、店の片付けが大変だったから全身ずっしりと重い。早く帰ってゆっくりしよう。
 マーレはどうするのかな?
「家は? 帰らなくていいの?」
 はたと立ち止まり、マーレはぽかんと空を見上げている。うーん、昨日の夜の出来事が嘘みたいだ。本人は何を考えているのか分からない顔つきで夕焼けを見上げている。
 家のすぐ近くでの出来事だった。視界に見たこともない人が飛び込んできた。とても背が高い、白い服に銀の髪を流した男の人。
 それまでぼんやりと空を見上げていたマーレが元気な声を出した。
「アズール!」
「探したぞ、どこをうろついてたんだ」
「知り合い?」
「はい」
「保護者……さん?」
「まあそのようなものだ。帰るぞ」
「はい。……メリル、お世話になりました。ありがとうございます。あの、これを」
 左耳からイヤリングを外し、それを差し出してくるマーレ。透明な宝石が付いたきれいなものだった。暖かみのある艶が陽光を反射してきらきら光っている。水晶かな?
「お礼です、どうかお受け取り下さい」
「いいの? かたかたになっちゃうじゃん」
「はい、かまいません」
 そっとそのイヤリングを受け取ると、ぎゅっと握りしめた。何だか不思議な力を感じる。
「ありがと、大切にするね」
「はい」
「何かあったらまた遊びにきていいよ、どうせ仕事なくなっちゃったし暇だから!」
「わかりました、おばさんたちにもお世話になりましたと、お伝えください」
 マーレ達の姿は夕焼けの大通りの奥へ、そのうち人集りに溶け込んで見えなくなった。
 いつの間にか横にいた買い出し帰りのお母さんが、ぽそりと言った。
「あっちの方角、お城じゃないか」
「確かに」
「荷物持ってちょうだい。ねえ、あの子身なりすごくよかったじゃない? いいところのお嬢様よ」
 結局名前以外分からなかった。ぼーっとしてる割には隙がないって言うか、濁された感じがある。あっちから会いにきてくれない限りこちらから会う事は出来ないくらい、分からない。もっと知りたかった、大切な命の恩人。
 右手の中で温まっている雫型の金と水晶のイヤリングを見つめながら、あの笑顔を思い出す。  家に帰って、そのイヤリングを銀のチェーンに通してペンダントにして首にかけた。

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