第一話 紅蓮の暗夜
あたたかい揺らめき。
奇妙な浮遊感、体温と一体化してどこまでも広がっていくような壮大な終わりのない海。
無限の闇の中で揺らめき、全身水に満たされながらも深呼吸している。
光のない意識の世界の中で見える、きらきらともつれながら輝く細い虹色の糸。それはとてもきれいだった。
そして遠くから鳴り響く鐘の音。
たゆたうは始まりも終わりも定かでない、始まりの見えない幾許もの記憶の集合体。
暑い。じっとりとした暑さが全身に重くのしかかってくる。とても眠りを継続することはできないほどの暑さだった。
首元に張り付く髪の毛。頭も背中もびっくりするほど汗びっしょりだった。
衣服が湿り気を帯びているのが気持ち悪くて、勢いよく脱ぎ捨てた。とても着ていられない。だというのにさっぱり涼しくならず、余計に熱をもった空気を纏うはめになった。今の季節にしてはおかしな暑さだ。
耳を澄ましてみると、外から無数の鐘の音が聞こえてくる。
おかしい、さっきまで夢の中で鐘の音が聞こえてたのは覚えているけれど、現実だったんだ。しかもこれは災害の時や緊急事態に鳴らされる、あまり馴染みのない警報の鐘の音。
先ほどの鐘の音は本当に夢なんだろうか? 今すぐにでもその音を思い起こす事が出来る。あまりに生々しくて、外でなっている鐘と音と溶けあって頭がおかしくなりそうになった。
とりあえずけだるい身を起こし、ベッドから降りて窓の外を見てみた。
満月の蒼い光に照らされた町並みを塗りつぶす、まっ赤な炎。信じられない規模の火の手の規模に、ぞっとした。
火事?
幸い自分がこうしていられるように、家自体には問題はないらしい。まだみんな眠っているのか、誰も起こしに来なかった。家から離れているから聞き取りづらいとはいえ警報の鐘が鳴り響いていると言うのに、うちの家族はのん気だなとため息をつく。よっぽど深く眠っているのだろう。
適当に手近な服に着替え、階段を駆け降り勢いよく家から飛び出した。
炎は家の近所にまでは来ておらず、離れたところで夜空を不気味に照らしていた。
水に囲まれたこの国で火事だなんて、何かの間違いとしか思えない。何がどう燃えているかこの目で確かめて見てみたい。
火事なんて人生で初めて見る。大事件だ。平和な街だから暴動や敵襲も考えられない。
寝ぼけた頭でいろいろと考えてみたが、原因は思い浮かばなかった。
この国の燃料は木炭だし灯油は貴重品だから、例え家一軒単位でも火事はほぼありえない。建築物もほとんどが石や土だから、燃えるとしたら家具や生活用品だけのはず。木材を使った家は建築資材向きの樹木が少ないこの地域では存在しないし、部分的に木材があっても柱くらい。街路樹だとしてもこんなに激しくは燃えない。
余りにも不可解すぎる、燃えるものがないのだから。
外に出ると、肌の表面に極細の針が無数に刺さり、そのまま頭までいってうごめくような、感じたことのない気持ち悪さに襲われた。
汗が噴き出してきた。それにこの、普通の温度的な自然な暑さではない、肌に焼け付くような痛みを伴う暑さ。冷静に考えてみると、あの炎の熱がここまで来るはずがない。まぶしさが熱さを感じさせていたんだろうか。
炎を見上げる。うちも含め、周りの家から誰か出てくる気配はなかった。とことん平和に慣らされている。
体が重い。何なのだろうか、これは。病気にでもかかったとしか思えない具合の悪さに、思わずしゃがみこみそうになった。部屋に戻って眠ればいいのかもしれないけれど、あの炎の謎が気になってとても眠るどころじゃない。
背中を丸め汗を腕でぬぐいながら、炎に向かってよろよろと歩く。
最悪なことに、炎に近づけば近づくほど体は重みを増した。思わずめまいがして膝をつく。
よく見ると路地の奥に、人だかりが見えた。声は鐘の音でかき消されてうまく聞こえない。とりあえず話を聞こうと、気力を振り絞って歩き始めた。
だんだんと人々の声が聞き取れるようになってきた。耳を澄ます。火が出てけっこう時間経っていること、住民は避難していること、城の兵士と自警団が対応に当たっていること、水をかけてもすぐに蒸発してなかなか消えないということが分かった。
おかしい。一般的な炎や火と言われているものは簡単に水で消える。しかしこれはかけた水を蒸発させてしまうほど熱いらしく、消えないらしい。一体どうなっているのか、ますます混乱した。
とりあえず、あの人ごみを越えて直接見に行かないと気がすまない、自分の好奇心がここで立ち止まることを許さなかった。
誰かに見付かるとまずいと思い、少し人の少ない場所から炎に近づいていく。
苦しい、だけどこの大事件を、身近で見たい。不可解な現象の謎をどうしても突き止めたい。
気持ち悪さに耐えながら何とか歩き回る。
幸い今日は満月だから、炎と相まって、物陰でない限り大体は見える。白い石で作られた美しい町並みが酷い有り様だ、見る欠片もない。そこにあるのは、炎の当たった部分が奇妙な燃えカスとなった家々だった。
この家の材質、燃やしたらこうなるのか? と思わせるような状態。やけどしないぎりぎりの距離まで近づいて燃える家の様子を凝視する。密度の高いはずの壁が軽石のようにスカスカになり、真っ黒になっていた。指でつついたらボロボロと崩れ落ちそう。さすがに人様の家を壊すわけにはいかないので、やめた。その前に近づけないけれど。
避難して人気のない路地。鳴り止まない鐘。揺らめく炎。たまに人が走る音がする。きっと兵士か自警団だろう。
上空から様子を見ようと、歩きながら空中浮遊術をかける準備をする。
しかし。
全身がこの暑さの中凍ったかのように動かなくなった。
ちょっとした広場に行き着いた時、それまでちゃんと働いていた意識が急に停止した。心臓が爆発しそうになった。
覚めない夢の続きだったのか、このそよぐ風は幻、そう信じたくなった。
真っ黒い何かがたくさん目先の地面に転がっているけれど、これが何か分かりたくない。きっと幻覚だ、本当はないのに真っ暗な中で視覚がおかしくなった私の目が、月夜に惑わされて見てる幻覚に違いない。これは夢だ、そう思い込みたい。
だけど。
この場所だけ他のところと焦げ臭さが違う。むせ返るような異臭だった。嗅ぎ慣れたようなそうでない、臭い。
体が動かない。ただどろどろとした汗がにじみ出るばかりで、自分の鼓動の音まで聞こえていた。
いつもとは違う色をした闇の中、鐘の音からは浮いて、ばさり、と何かが地面に落ちる音がした。何の音だろう、気になるけど体が動かない。ただ小刻みに力なく震えている指先が、空気すらつかめないでいる。
そのうち、こちらに向かってくる足音が聞こえてきた。 石畳を踏む音がだんだんと大きくなってきた。
ギシギシと関節を軋ませながら動かない体を必死に動かし振り向くと、そこには空よりも真っ黒な、深い闇。
何も言えない。言葉が出ない。ただこちらに向かってくるその姿を凝視するだけ。
こんなところで何をしているんだろう? 逃げ遅れた人だと自分に言い聞かせる。
心臓が爆発してしまうのではないかと思ってしまうほど、苦しい。あの気持ちの悪さと相まって意識が遠のきそうになった。
足音がますますこちらに近付いてくる。全身を絶望で強く打たれた。
今度は向こうの方からおぞましい叫びが上がった。一層の恐怖が押し寄せてきた。干上がる喉、カチカチと無気味な音を奏でる歯。声は少し奥から聞こえてきた。死角になって見えないところだ。
自分はこんなところで何をやっているんだろう、ただ好奇心だけでここまで来て、現実とは思えない後継を目の当たりにして動けなくなっている。どうしてこうなってしまったのか、気が狂いそうだった。むしろ既におかしくなっているのかもしれない。そして幻覚を見ている。
息を飲み込みすぎて胸の苦しさにさらに息を飲む。
絶望的な、恐怖。今最も身近にいるのは、死か。
そのうち闇がこちらに飛び掛ってきた。
喉から乾いた情けない悲鳴がでる。驚きに意思とは関係なく足が動いたが、まともに歩けずにもつれ、転倒して全身を地面に打ち付けた。思わず気が遠くなる。
自分はこの、広場に転がっている逃げたと思っていた住民達みたいに殺されるんだろうか? 全身を震わせながらうっすらと家族や友人達の顔を思い浮かべた。少しでも心を休めようとした結果がそれだった。
絶望の海を泳ぎながら止まったようにゆっくり流れる時間をがぶ飲みしていると、別の足音が聞こえた。
さすがにもう無理か、短い人生だった。あきらめて目を閉じた。最後に水の一杯でも飲みたかった。出来うる限りの人に野次馬は危険だとも教えておきたかった。
駆け回る足音が二つ。もう死ぬんだろうし、早く楽にしてくれと思いながら時を過ごした。それにさっきから鐘の音に混じって聞こえる無数のうめき声。まだあの人たちは生きているんだろうか、全く動いていないのに。とてもうるさい。助けてといっている声が多いが、なら立ち上がって逃げればいいと思うものの、やはりそれらは水揚げされたマグロのように寝転がっているだけ。そして自分がああなるのを想像するのも容易かった。
衣擦れの音、地を蹴る音、シャラシャラというアクセサリーがぶつかる音、そして。
包丁で巨大な魚を切り落とした時のような不気味な音と同時に、断末魔の悲鳴が鐘の音を塗りつぶし、意識を侵食してきた。
あまりの驚きに自分まで便乗して絶叫する。
見開いた目に映ったのは、この情景にとても似つかわしくない人の姿と、倒れた闇の姿だった。闇は全く動かない。
何が起こったか分からないまま唖然としていると、その人がこちらを振り返る。
じっと目を凝らしてみると、髪の長い、片腕に剣を持った女の子だった。
この女の子が今の奴らを? それともこの子がこの周りに転がる無数の死体を作り上げた?
「あ、あの」
やっと出た声。それも情けなくてほとんど吐息交じりで震え声で、情けないものだった。
女の子はぽかんとした顔つきでこちらを見ている。
あれ? もっと怖そうな顔をしていると思ったのにあまりにも穏やかなその顔に拍子抜けした。
「はい」
女の子はゆっくりとした動作で持っていた剣を二、三回振ると、鞘に収めた。何か飛び散っていたが、おそらく血。
どうやら自分を殺す気はないようだと、わずかに緊張がほぐれる。剣を出しっぱなしにされたままではたまらない。
「ぶ、ぶっ倒し……た?」
何とかでるようになったかすれ声で、必死に質問をする。
「はい。ですがまだいると思いますから、油断は禁物です」
取り乱す雰囲気もなく、そう言いながら女の子は再び闇に消えていった。
追おうと思って踏み出したが、何か柔らかいものを踏んで驚きのあまりに飛び退いて尻餅ついた。何を踏んだんだろう、分かっているけど、認めたくない。
ほどなくして又うめき声が。
さっきの女の子は、まだ油断できないらしいことを言っていた。そして、どこかへ消えた。
とりあえず安全な場所にと、広場の端にある倉庫に身を隠した。まともに体が動くようになるまでは、少し気を落ち着かせないとだめだ。それに気持ちの悪さも残っているから、途中で倒れてしまいそうでもある。
倉庫の中は、大きな樽や麻袋などが置かれていた。幸い火の手はきてない。窓がなく、真っ暗だ。あとは火の手が回ってこない事を祈るのみ。
けれど、運が悪かったのか 、またもや闇が現われ月の光を遮った。
もう逃げられない! 絶望でしゃがみこみ、緩く握ったこぶしで地面を叩き付けた。散らばっている小さな粒が手に食い込んだ。多少体は動くようになったのに、逃げ場を失うとは想定外だった。袋のねずみだ、これじゃ。
脱力して腕を投げ出すと、がつんと鈍い痛みが右腕に走った。今はもうそんな痛みもどうでもいい。
もう最後だからと、半ばあきらめで声をかけた。
「誰?」
問いかけた相手は何も答えない。兵士や自警団なら大丈夫か問うてくるはずだ。だがここにいる奴はそれを聞いてこない。
質問は無視され、搾り出した声は闇に溶けて消えた。
月の光を塞ぐそこにいる何かは、とうとうこちらに歩み寄ってき、ぶつくさと何かをつぶやき始めた。聞いたことのない言葉だった。男なのも分かった。
何だよ、言葉の通じない異国の人か。そりゃ自分の問いかけにも答えないわけだ。
ぼんやりと男を見つめていると、言葉の終了と同時に手に炎が灯った。
霊素組成儀術!?
「な、何?」
この国では、霊素組成儀術の傷害目的での対人使用は禁じられている。重罪だ。男は何をしようとしているのか、暗いからあかりを灯したのか、そうでなかったらとんでもなく危険なことだ。
「ガキか」
異国人じゃなかった。ガキと言われた。死んだような瞳をしたおじさん。ただ、その雰囲気は見た目では計り知れない気持ち悪さを纏っている。
じゃあ、さっきの詠唱の霊素言語はなんだろう? 聞いたこともない発音だった。手には何も持たれていないから霊素組成儀術である事には間違いない。
「な、何なんだよ……」
思うように言葉が出ない。それに、あの炎で何をしようというのか。
「お前の家族も既に死んだ、諦めろ」
その一言で悟った。ダメだ、殺される。人殺しだ、こいつは。術殺を犯した罪人。
「どう、するの?」
じわじわと後ずさりをしながら問う。どうせ無意味だ、そのうちあの炎で焼かれるだろうに。
どうせやるなら一思いにやれよと躍起になって立ち上がり、月明かりの影で見えない男の目をにらんだ。
「な、何なんだってんだよ、何か言え!」
「とっとと寝とけ、やかましい」
胸に衝撃が走った。どうやら殴られたらしい。衝撃でそのまま倒れこんだ。しかし、おかしい。熱くない。こちらに向かって突き出された腕は確かに燃えている。それも結構な勢いで。
「……何故燃えん?」
それはこっちが聞きたい。
とりあえず大した衝撃ではなかったので、何とか立ち上がる。不審に思った男は赤い炎に照らされた顔を左右にゆっくりとふってうなっている。これなら逃げられるかもしれない。
そんな時だった。
男は突然倒れ、地面でもがき始めた。そしてそこに広がるどす黒いな水溜り。
一撃だった。月の光を受けてたたずむのは、どう見てもさっきの女の子だった。
また、助けられた?
「え、あ、あの」
「すみません、まだいるとは思わなくて」
ぽかんとして彼女を見つめていると、手が差し伸べられた。
「行きましょう」
「あ、ちょ」
剣を右手に、私の手首を左手につかんで軽快に走り出す女の子。唐突な展開にぽかんとする。引っ張られているせいで足は何とか動いてくれた。
女の子はまだ周囲の様子を伺っているようで、きょろきょろしていた。
もしかしたら助かるんだろうか? 生きて家に帰りたいと走りながら切望する。
ふと思い出して足元を見ると、こげて海綿のようになった不気味な死体が転がっている。恐ろしかったけれど、何故か今は先ほどと同じ血液が霧になるような恐怖心は沸いてこなかった。
「ね、ねえ」
うまく言葉が出ない。
何とか人だかりの付近まで戻る。生き残った人々を再び見れたおかげか、どっと緊張が緩んで女の子の手から腕を引き抜くように座り込んだ。
あの広場で聞こえた「助けて」といううめき声と、無惨に殺された人々を思うと、視界がぼやけてきた。
女の子は向かい側に来てちょこんと座った。
「火事の様子を見にきただけなのに」
「野次馬ですか?」
「ほら、火事とか滅多にないし、その、生まれて初めて見たからさ、どうしても見たかった」
すこし落ち着いたところで、目尻と汗でべたべたになったおでこを上着で拭う。
この子が助けてくれてなかったら、自分はどうなっていたんだろう?
「ありがとう、死ぬかと思ったよ。ところで、名前とか、その、何ていうの、誰?」
人々が灯したあかりに照らされた女の子は、長い髪を二つに結い、背には剣、服装は何とも言えない見たこともないような姿だった。旅人かな?
という年齢にしてはちょっと幼すぎる気も。雰囲気的にはどう見ても自分より年下だ。どこかで知り合った記憶もない。
「私ですか? マーレです」
今までのしゃべり方とは違った声色で、すこし恥ずかしそうに女の子・マーレは答えてくれた。
「あなたは?」
「メリルだよ。さっきは、本っ当にありがとう。死ぬかと思った、はぁ」
大きなため息をつく。同時に緊張もずいぶんと抜けていった。
がくりとうなだれていると、柔らかい何かが寄りかかってきた。結構重たい。
「って、ちょ、大丈夫!?」
マーレが寄りかかってきた、それも意識を失っているのか眠っているのか、穏やかな吐息が聞こえてくる。
「ね、寝たの? いきなり? 大丈夫かな……」
仰向けにし顔色を見るが異常はなく、脈拍も正常だ。まだ幼そうだし、疲れて眠ったのかもしれない。そう判断した私は風の術で運び、彼女を家に連れて帰ることにした。命の恩人でしかもこんな年端も行かない女の子を放ったらかすわけにはいかない。普通は家に知らない人を連れて帰るなんてありえない。倒れたのか眠ったのかも分からないんだから心配ではある。そんな気持ちとは裏腹に、触れた肌の熱さも異常はなく当然外傷もなかった。
まじまじと見ると、幼い可愛らしい顔立ちなのに、重さに納得の行く肉付きのいい体をしている。あんな奴らと戦うんだから、体格がよくてもおかしくはないが、ちょっと、その、発育よすぎだ。素手じゃ抱えられなさそうだった。
それにしても、何だったんだろう。
起こりえない火事、謎の気持ち悪さ、不気味な焼け方をした家々、広場に転がる無数の死体、謎の男と聞いたこともない霊素言語での詠唱、そしてそいつらを倒したこの女の子。
疲れた私はとぼとぼと家に向かって、風に包まれたマーレを抱きかかえて歩いた。
家の玄関には、驚いた顔のお母さんとお姉ちゃんがおり、こちらに言葉を投げかけてくる。
「どこ行ってたの?」
「いないからびっくりしたわ。それにその子は?」
「ただいま。ちょっと野次馬してきただけだよ」
まさか死ぬ目にあってたなんて言えないし、こうして今生きているんだから、まあいい。
「キッチンの常連で仲良くなった子なんだ。酔っ払って寝てるから仕方なく」
「そういうことなの。じゃあ枕準備しようか」
「うん。ちょっと汗だくだから水浴びてくる。風の術かかってて運びやすいからベッドに寝かせてて、私のベッドでいいよ」
家の中に入りながら、マーレのことを頼み、自分は浴室へ向かった。
キッチンの常連で酔っぱらってるなんて、何だかおかしくて思わず吹き出した。命の恩人なのに。
水を浴びさっぱりしたところで部屋に戻ると、入り口で二人が待っていた。ベッドではマーレが眠っている。
「どうだったの?」
「よく分かんない、見てきただけだし」
「大丈夫なのかしらねぇ?」
「どうだろう」
「あとはお父さんが起きてて見張ってくれるらしいから大丈夫よ」
「うん。ちょっと疲れたから私寝る」
「はいはい、危なくなったら起こしにくるから、おやすみ」
「ごめん、おやすみ」
お母さんとお姉ちゃんは部屋から去って行った。
ベッドに座り込み、そっとマーレの横に寝転がった。
「マーレ、か……」
名前以外は分からない。助けてくれた事実はある。でもこの子、何者なんだろう?
ランプに照らされたあどけない寝顔を見続けていると、緊張感が解けて、だんだんうとうとしてきた。
わずかな時間だったのに、ものすごく体が疲れている。
鐘の音と共に、またあの感覚が体を包む。
奇妙な浮遊感、体温と一体化してどこまでも広がっていくような壮大な終わりのない海。
無限の闇の中で揺らめき、全身水に満たされながらも深呼吸している。
光のない意識の世界の中で見える、きらきらともつれながら輝く細い虹色の糸。それはとてもきれいだった。